普通の文章から「文学」へ
普通のコピーライティングから「文学」へ
一歩深く進むために、
理解しておく必要のある概念がある。
理解して使いこなせるようになるものが
結果として、
時給980円、9,800円から
限界突破して、
98,000以上の領域へと上がっている
「状態」になる。
それは「我」の概念である。
「我」と言えば、
釈迦(シャカ)は生まれた直後に、
七歩、歩いて右手で天をさし、
左手で地をさして
「天上天下唯我独尊」と
言ったという伝説がある。
「天上天下唯我独尊」を
どちらの方向から見るかどうか?
これも普通の文章と文学、
普通のコピーライティングと文学の
違いであることに気づくまでに、
40年以上もの月日を費やしてしまった・・・。
あの頃の僕は、
天の上にも、天の下にも、
通ずる位。
自分が特別な人間になり、
自分自身をも尊敬できる
人間にならなくては・・・
「天上天下唯我独尊」
と、必死にあがいていた。
その様が、過去の僕の言動、
それをつづった文章たちの中に、
随所に見られるのである。
10代〜30代前半の頃の僕は、
より高いところに登ろうとして、
より大きく自分を見せようと
虚勢を張っていたのではないだろうか?
この世に生を受けからには、
何か特別な生きた証を残さないと!
その様は、
「目指せ!天上天下唯我独尊!」
やるからにはとにかく
凄い人になろう!
唯一無二になろう!
圧倒的になろう!
サラリーマンの世界でも、
出世をしたり。
お金を稼ぐ世界でも、
圧倒的に稼いだり。
そういうことが
できる人間になろう!
軍師として活動するというなら、
まずは僕自身が
特別な人間に成り、
高みに昇らなければならない。
自分がオンリーワン、
唯一無二な存在になり。
圧倒的な実績を出せる
人間にならなければならない。
ただそれだけを考えて、
様々な計略を練っては、
自分が実行したり、
他人に実行してもらったりしていた。
当時お付き合いしていた、
周りの人間からの影響も
多きかった部分もあるかもしれないが。
特別な人間の立ち振舞として・・・
香港オークションで
落札した特別な時計をつけたり。
某ブランドショップの本店で、
「これ全部マオカラーに変えて下さい。」
高級服を一度に大人買いを
お店に訪れる度にしてみたり。
盟友の
平城寿@SOHOに対しても、
「特別な人間になるためには、
まずビジネスクラスに乗ったり、
五つ星ホテルに泊まったりしないと!」
と熱弁したり。
高級な食事に、
特別な美酒を
浴びるように食べ飲んでいた。
何よりも、
収入の大小が、
人としての価値を決定づける的なことが、
露骨に日々の言動に表れていた。
だから「天上天下唯我独尊」を、
そちら側の方向で
捉えてしまっていた。
そういう自分を
振り返ってみると、
極めて自己中心的。
傲慢さを感じてしまい、
今となっては、
恥ずかしくて恥ずかしくて
仕方が無いのである。
しかし、
「驕(おご)れる者久しからず」
とはよく言ったもの。
自分が特別であると勘違いして、
地位・富・名声などを笠に着て
威張り散らしてるような者は、
遠からず没落するもの。
それは、
僕にとっても
例外では無かったようで。
程なくして、
度重なる「飛んでイスタンブール」を
経験しまくることになった。
あれからいつの間にか、
かなりの年月日が
流れていった。
成功も、失敗も、
良いことも、悪いことも、
様々なことを経験。
そうしている間に、
気がつけば僕も、
9月11日で誕生日を迎えれば、
42歳になってしまう。。
ここ何年かは、
門学や推命の鑑定活動を通して、
多くの方々と、
お金や成功の大小という軸とは
また違った部分で。
自分と他人、
人間とは何か?というものを
改めて見直したり、
考えさせられる機会が増えた。
すると、
いつの間にか、
「天上天下唯我独尊」という言葉が、
それまでとは
別の捉え方で
見えるようになっていた。
まったく逆の、
捉え方になっていたのである。
「天上天下唯我独尊」
その人が何者であろうが、
今どんな状態であろうが、
この世に生を受けてる限り尊いもの。
本当にダメな人なんていないんだよ。
なぜなら、
今の状態は「関係性」が変われば、
いとも簡単に変わってしまうものだから・・・。
と考えるようになった。
僕にとっての
一番大きな発見は、
「我」という概念の
本当の意味である。
「錬金術10時間合宿」1時間目の中でも、
詳しく言語化している部分から
一部抜粋させて頂くが。
もともと「我」の中身は空っぽ。
「我」の中には何も無い。
「門学」で言うところの「門力」を
次のステージで
活用するために必要な、
「空我」の概念というものがある。
僕たちそれぞれの持つ「我」。
いや、持っているとされる「我」
という概念そのものが、
実は一番の「空」だった。
その証拠に、
独り部屋の中にこもり、
「我」についてどれだけ深く考えたところで、
「本当の自分」などということには
辿り着くことは無い。
第三者との関係が発生している時のみ、
「自分という存在」が浮かび上がり、
今その時点の第三者から求められる
自分こそが、今の自分であり。
この瞬間。
第三者と自分の関係性の「状態」を
切り取ったものを、
「本当の自分」と言っているものに過ぎない。
「本当の自分」とは、
過去にもミライにもあるのではなく、
その瞬間に存在している状態なのだ。
たとえば、
恋愛・ビジネス活動でのプロフィール、
就職活動でのエントリーシート。
自分というものを、
言語化してみればみるほど、
自分は自分のことから
かけ離れたものとなることが分かる。
関わる人間、時間、場所、施設、趣味、仕事・・・。
なぜか自分を言語化しようとすればするほど、
自分以外の他人や、
第三者が過去に設定し、
それがみんなから認知されている、
基準値のことしか語ることができない。
つまり、
自分以外の
第三者との関係性の状態によって、
自我がボンヤリと浮かび上がるものに過ぎず。
自我があるから、
第三者との「関係」が発生するのではなく、
第三者との「関係」があるから、
自我が発生しているに過ぎず。
だから僕たちは、
どれだけ深く自分について語ろうとしても、
他人との関係性、
その「状態」を切り取ったものについて
語ることしかできないのだ。
「自分のやりたい事」
自分が演じたいと思っている
使命・役割を、
演じようとすればするほど。
追求しようとすればするほど。
それがいつの間にか、
第三者から求められている、
自分の使命・役割になっている。
自分が演じたい使命・役割と、
第三者から求められる
自分の使命・役割が一致した時。
さらには、
一致している数が
圧倒的に大きくなった時。
結果として、
ビジネスや恋愛の活動にて、
大きな成功を得ている
状態になっているに過ぎない。
財と愛に恵まれていると
自分の感情が認識している、
状態になっているに過ぎない。
けれども、
財と愛に恵まれた
状態であることに、
自分は特別で、
圧倒的な人間で、
オンリーワンだと、
自惚れたり、
勘違いした瞬間に、
その状態は
壊れていってしまう
方向性へと進んでしまう。
自分と関係性が
発生している人間たち、
家族、仲間、友人・・・
周りの人間との関係が崩れはじめる。
結果として財も愛も
無い関係性の状態に
戻って行ってしまう。
「本当の自分」とは、
自分の心の中に存在しているのではなく、
自分と関係のある第三者の
心の中に存在していて。
第三者から望まれる自分の
使命・役割を演じ続けられると、
自分の魂が周りからの認識によって
光り輝いて見える
「状態」になっているに過ぎない。
その「状態」を
各々の持つ感情が
「認識」しているに過ぎない。
この事実を理解することが、
「門学」による「門力」、
推命による「命運のシナリオ」
などの力を。
次のステージで、
使いこなせるようになるための
登竜門であり。
自分の発する言葉が、
文章から「文学」へと、
変わっていくためのヒントになる。
さて、
あなたはどういう意味で
捉えているだろうか?
「天上天下唯我独尊」
この意味を。